top of page

三富新田とは

  三富新田は武蔵野台地北東部に位置し、川も少なく水の便が悪い。
  土質は火山灰の降り積もった関東ローム層。土の粒子は細かく、乾燥している時は容易に飛ばされやすいがひとたび雨が降れば粘土状になり足をとられるほどぬかるむ。古来より水に恵まれず植物が少なかったためクロボク土ほど豊かではなかった。


  風の強い関東平野のなかで風除けになるような低山も無く植性に乏しいため風を遮るような森も成長しなかった。
  そのような場所で繁茂したのがカヤ(ススキ)。開拓前は秣場と呼ばれ近隣の入会地であった。

 

〇開拓
  1694(元禄7)年、川越藩主になって間もない柳沢吉保は広大なカヤ野原だったこの地の開拓に着手した。
  水が無いこの地を農地にするために、まずは防火のために開拓地を幅4間(7.2m)又は6間(10.8m)という当時としては非常に広い道路で分けた。
  この道路を中心に、農家一戸あたり幅40間(73m)奥行375間(682m)の短冊形の5町歩づつの土地を割り当てた。かなり広い土地だがやせた土地で水もないことから,このくらいの広さがなければ生活が成り立たないと考えたのではないか。
  当初の入植者は上富村143戸 中富村48戸 下富村50戸。
  飲料水の確保のためには農家15軒あたり1本程度の深井戸を掘った。それでも日照りが続くとすぐに枯れてしまい、農業に忙しい大人に変わって子供たちが柳瀬川まで飲料水を汲みに行った。
  なお、平地林や屋敷林が成長すると樹木が地下水をくみ上げるようになったことから、井戸の水位が上昇してきたと言われている。

〇屋敷林
  開拓農家は道路に面したところに家を建て周りをケヤキ、スギ、カシ、竹等で囲んだ(屋敷林)。これらの樹木は建材や日常の道具作りに役立つとともに強い風を防ぎ、防火や夏の暑さをしのぐ効果も高い。

〇ヤマ(平地林・雑木林)
  土地の屋敷林と反対側の端にはコナラやクヌギなどの落葉樹を植えた。落葉樹はその落ち葉を集めて堆肥とし重要な肥料となった。さらにコナラやクヌギは一定期間ごとに伐採され新河岸川を通じて薪として江戸へ運ばれた。樹々は地上30㎝ほどの高さで定期的に伐採され萌芽更新により再生された。

〇畑
  屋敷林と雑木林の間が畑となり、隣の土地との境界線には当初は卯木(ウツギ)、後にはお茶の木を植え風除けとすることにより畑の土が飛ぶことを防いだ。

  このあたりには「一反の畑に一反のヤマ」という言葉が残っている。畑の肥料として落ち葉を集めるためには同じ広さのヤマが必要ということである。
  そのため、当初は畑とヤマの広さはほぼ同じであった。

  地域全体を緑が何重にも守る現代に続く三富新田の景観​はこのようにして出来上がったのである。
 

   ※メンバーのホームページでもう少し詳しく説明しています。
     オカメインコの父Home

 

Drone1.jpg

上富地区より西を望む                     画面右上に冠雪した富士山

三富13.JPG

三富の農業の基本はこの落ち葉です

bottom of page